農・食・健康・むらづくりで新時代を拓く
「月刊「現代農業」を飾ったカリスマ人物伝フェア」
第5回 中島正

「自給」こそ農家生活の本質。半世紀も揺るがない自然卵養鶏の技術と思想
●時代が求めた自然卵養鶏の復興
1970年代初頭、日本の畜産、とりわけ養鶏は大きな岐路に立たされていた。
オイルショックによる飼料価格の高騰がその引き金となった。「物価の優等生」といわれた卵も、その安定した低価格は、輸入飼料に依存しながらひたすら大規模化によるコストダウンを図ってきた養鶏農家(養鶏企業)の努力によるものであった。飼料価格の高騰は養鶏農家に大きな経営的打撃を与えた。
一方、消費者からは、狭いケージに閉じ込められて、購入飼料(当時は完全配合飼料、俗に「完配」と呼ばれていた)だけを与えられ、家畜薬を投与されながらひたすら生み続けられる大規模養鶏の鶏とその卵に対して、安心・安全を求める声も強くなってきた。
地域の自然環境を生かした「小羽数平飼い養鶏」を叫び、中島正氏が表舞台に飛び出してきたのは、まさにその時期であった。
中島氏は1920(大正8)年生まれ。陸軍工科学校卒業後、第2次世界大戦中は台湾軍所属。戦後、郷里である岐阜県の山里に戻り、小羽数の平飼い養鶏を取り入れた農業を営む。
「現代農業」に中島氏が登場するのは、1978年6月号。「まっとうな農業養鶏の復興を!」と題した記事を寄稿した。大型企業養鶏が陥っている薬剤投与―副作用―鶏の弱体化―薬剤多投という悪循環を批判。その一方で、大型企業養鶏の卵が溢れていればいるほど、農家の庭先養鶏の卵が求められるし、農家の庭先養鶏でなければこれから先の見通しもない、と訴えた。
丸太の柱にトタン屋根、床は大地のオール開放鶏舎、そして周りには鶏糞で育った緑草が繁り、その草を刈って緑飼とする。そのほか、米ぬか、カニ殻粉末(缶詰工場の廃棄物)、近所の豆腐屋さんからでる豆腐粕などを発酵させて鶏に与える。自らこの養鶏法を「農業養鶏」と呼び、記事の最後には「今こそ農業養鶏の復活を!」と締めくくった。
この記事を第1回目として、中島氏は「ラクラク小羽数養鶏の実践」という連載を開始。「農業養鶏」という呼称は、後に「自然養鶏」に、生産された卵は「自然卵」と呼ばれるようになっていく。「現代農業」の一読者の呼びかけによって始まった、中島氏を師とする自然養鶏の交流会が母体となって「全国自然養鶏会」が結成され、1986(昭和61)年春、第1回の総会が開催された。
●大地に暮らす人間としての生き方
空気、日光、大地、草、水など、地域固有の資源を生かす「農業養鶏」について中島氏は、「いかなる事態に直面しようとも、大自然の続く限りそれは悠久の自立が可能である」と書いた。それは、自然の中で暮らす人間としての生き方にも通じる、中島氏の思想の表現であった。この「農業養鶏」の技術と思想は、大地に根ざした農家生活、自給農業をめざす農家や新規就農者の心をつかんでいった。
1980年、『自然卵養鶏法』を出版。2001年にはその『増補版』が出るなど、揺るぎない技術と思想は30年を経た今でもバイブルとして読み継がれている。
2007年には、自身の農業に対する信念も含めて、自給農業に取り組むための技術をまとめた『自給農業のはじめ方』を発表。50羽から始める小羽数養鶏の方法から、トラクタなど使わずにできる低コスト不耕起のイネ(陸稲)やムギ、農薬不使用の野菜づくりや自家採種の方法、山菜採取、農産加工など、本書に収められた本当の田舎暮らしの技術と知恵は、新規就農者も含めて大きな影響を与えて続けている。
そして2009年、半世紀にわたる経験を50項目に精選し、後進に書き遺した『自給養鶏Q&A』を出版。養鶏を軸とした自給生活の確立を願い、あえて「自給養鶏」と題した渾身の著作となった。
平飼い養鶏で自給自足を簡単に実現。イネやムギ、野菜の栽培法も紹介。農家が勧める就農入門。
※在庫切れのため、ご注文いただくことができません。
これから鶏を飼ってみようという人、2、3年やってみたが疑問や障壁にぶつかって困っている人などに向けて自然養鶏50年の著者が、エサ、育すう、飼育環境、病害、経営の5つの角度からその心髄を懇切丁寧に解説。
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